新美 宏樹ニイミ ヒロキ お気に入りに追加 | アーティスト情報 にいみのこれまでの仕事の多くは、社会のなかで使い捨てられた視覚的なイメージをアッサンブラージュし、絵画言語へと変換することで「使い終わった」ものであるクリエイティブを新たにアクティベートしようとする試みであり、かつその状況を生み出し続ける現代の経済システムに反抗するものでした。「数値化され、最適解を追い求める経済活動を中心とする私たちの時代にとって、創造力はその駒となる場合がある」とにいみが語るように、彼の関心は常に一貫してマーケティングのために行使されるクリエイティビティと、同様の目的下において生成・使用・廃棄されたクリエイティブに向けられています。したがって、にいみの実践方法もまた、必然的にメルツ絵画のように「使い去られたイメージ」を素材とすることから始まります。漫画、雑誌、広告等における意図的に生み出され、特定の目的下で使用され、そして廃棄されたイメージを集め、再構成し、それによって一つの画面を構成する制作的なスタンスはシミュレーショニスト的な礼儀正しさすら感じさせますが、とはいえ新美はそれら過去の美術動向をペダンティックに模倣するアーティストではなく、彼があくまでも使用・廃棄をリピートし続ける今日のクリエイションをめぐる物語における抒情性に目を向けている点において、その創作は決定的に区別される性質を備えていると言えるでしょう。アーティストとしてのキャリアが始まる以前、彼自身もまた長らく広告制作のプレイヤーでした。彼の重んじる「消費され、酷使されるクリエイターの心情」とは彼自身の体感と記憶であり、時としてにいみのアートワークにおける図像の使い方はストリート的、あるいはポップアート的な感性の影響も見えますが、それらはむしろ広告制作、あるいは「消費されたクリエイティブ」の当事者が持ちうる、マーケティング手法のコンテクストを露悪的に、逆説的に使用しているものと読むべきでしょう。「効果測定の精度が昔より遥かに高い今日において、クリエイターとは安定した成果を出すイメージを生産する機械であり、個人の創造性が抑圧された状況に身を置くことを強いられる」という彼の言葉は、その創作活動全体が、単に引用とコラージュによる視覚イメージの造作ではなく、今日の私たちの社会に実在する、ある種の人々の心情を押しはかることを示唆させるベクトルがあることを、私たちに示しています。にいみが(今のところは)絵画で行っている試みは、広漠としたリアルとデジタルの二重的な世界で死に絶えていくクリエイティビティを悼むことであり、それを生み出しているシステムそのものを侮蔑することなのです。 新美宏樹Hiroki Niimi
にいみのこれまでの仕事の多くは、社会のなかで使い捨てられた視覚的なイメージをアッサンブラージュし、絵画言語へと変換することで「使い終わった」ものであるクリエイティブを新たにアクティベートしようとする試みであり、かつその状況を生み出し続ける現代の経済システムに反抗するものでした。「数値化され、最適解を追い求める経済活動を中心とする私たちの時代にとって、創造力はその駒となる場合がある」とにいみが語るように、彼の関心は常に一貫してマーケティングのために行使されるクリエイティビティと、同様の目的下において生成・使用・廃棄されたクリエイティブに向けられています。
したがって、にいみの実践方法もまた、必然的にメルツ絵画のように「使い去られたイメージ」を素材とすることから始まります。
漫画、雑誌、広告等における意図的に生み出され、特定の目的下で使用され、そして廃棄されたイメージを集め、再構成し、それによって一つの画面を構成する制作的なスタンスはシミュレーショニスト的な礼儀正しさすら感じさせますが、とはいえ新美はそれら過去の美術動向をペダンティックに模倣するアーティストではなく、彼があくまでも使用・廃棄をリピートし続ける今日のクリエイションをめぐる物語における抒情性に目を向けている点において、その創作は決定的に区別される性質を備えていると言えるでしょう。
アーティストとしてのキャリアが始まる以前、彼自身もまた長らく広告制作のプレイヤーでした。彼の重んじる「消費され、酷使されるクリエイターの心情」とは彼自身の体感と記憶であり、時としてにいみのアートワークにおける図像の使い方はストリート的、あるいはポップアート的な感性の影響も見えますが、それらはむしろ広告制作、あるいは「消費されたクリエイティブ」の当事者が持ちうる、マーケティング手法のコンテクストを露悪的に、逆説的に使用しているものと読むべきでしょう。
「効果測定の精度が昔より遥かに高い今日において、クリエイターとは安定した成果を出すイメージを生産する機械であり、個人の創造性が抑圧された状況に身を置くことを強いられる」という彼の言葉は、その創作活動全体が、単に引用とコラージュによる視覚イメージの造作ではなく、今日の私たちの社会に実在する、ある種の人々の心情を押しはかることを示唆させるベクトルがあることを、私たちに示しています。にいみが(今のところは)絵画で行っている試みは、広漠としたリアルとデジタルの二重的な世界で死に絶えていくクリエイティビティを悼むことであり、それを生み出しているシステムそのものを侮蔑することなのです。